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ナースの卯月に視えるもの_005_石川真紀

ナースの卯月に視えるもの_005_石川真紀

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The main ideas from this information are: - The speaker and their friend, Yamabuki, went to a sushi restaurant called Yocchan. - Yamabuki noticed a shark in the restaurant and asked about it. - The speaker and Yamabuki discussed their jobs and their worries about becoming independent. - The speaker and Yamabuki discussed their preferences and dislikes in food. - The speaker went to a stone workshop to learn about sandblasting. - The speaker also visited a temple and a cemetery to gather information about sandblasting. - The speaker encountered a woman who may be related to their investigation. - The speaker learned about a theft at a stone workshop and saw the woman from earlier working there. - The speaker speculated that the woman may have witnessed the theft and that their deceased friend, Sekijo, may have witnessed it as well. 結局、もときと行くお店はよっちゃん寿司になった。 山吹がもときに好きな食べ物を聞いたとき、もときはしばらく考えてから甘栗と言ったらしい。 それじゃ食事の参考にならないと言ったが、それ以上の好物は出てこず、 結局手近なよっちゃん寿司に行くことになった。 山吹が行ってみたかったらしい。 お店にサメがいるんだっておかしくない? 山吹がもときに話しかけている。 私服のもときは清楚な紺色のニットにベージュ色のワイドパンツだった。 山吹は灰色がかったような黄色いニットを着ている。 これマーガリンエローっていうトレンドカラーなんです。 かわいくないですか?とさっき後衣室で自慢してきた。 かわいいし似合っている。 サメ生きてるんですか? そうそう生きたサメ、その名前がよっちゃんっていうらしいよ。 朝倉は事前に言っていた通り今日の食事には来なかった。 自分がいない方がもときは話しやすいかもしれないと気を聞かせたのだ。 でも今のところ山吹が一番喋っている。 風が吹いて三人の傘に雨音が鳴る。 今日は梅雨らしいしとしとした雨ではなくかなり雨足が強い。 よっちゃん寿司に着いたら今日もあらじるから注文しようと自分で決めた。 ああいたいた、本当にサメいるんですね。 山吹が水槽のよっちゃんを珍しそうに眺めている。 もときも山吹の隣に並ぶ。 山吹は2年目だからもときの1年先輩だ。 このくらい年数が近い方が話しやすいかもしれない。 山吹に一緒に来てもらって正解だったなと思う。 もときを真ん中にしてカウンターに並んで座る。 私がまずあらじるを注文するというと、じゃあ私もともときが言った。 山吹はいらないと言う。 板前さんたちは相変わらず威勢が良くて、店内は明るくて清潔で、 四季の近い患者とたくさん接してきた私たちとこのお店とでは何もかもが違うように見えた。 でも誰かが死にそうなときにも私たちはお腹が空く。 私たちが食べなければ四季を迎える人の看護はできない。 そのためにこういう元気で明るいお寿司屋さんがある。 そう思うと何もかもが違うなんてことはないのかもしれないと思った。 生きている人がいれば何か食べるし、何か食べている私たちだっていつかは死ぬのだ。 そうやって世界は巡っている。 板前さんが粗汁を置いてくれる。 私はお椀を両手で持ってずずっとすすって、ふーっと息を吐く。 刻んだネギがアクセントになっていて体が温まって美味しい。 もときは私が食べるのを確認してからお椀に口をつけた。 うずきさん苦手なものありましたっけ? 山吹が注文用紙を書き始めている。 うん、いくらがダメ。 ああ、そうでしたね。けどいくらは私が食べるから頼んじゃいますよ。 もときちゃんは苦手なものある? もときは、いいえ、特にはないですと言った。 好きな食べ物が甘栗で苦手なものはないなら、食に対するこだわりがあまりないのかもしれない。 じゃあ適当に頼んじゃいますよ。 山吹は注文用紙に書き加え、板前さんに渡した。 えー、もときちゃん、仕事はどうよ? 山吹が楽しそうに直球で聞く。 後輩とこういう話ができるのが嬉しいのかもしれない。 仕事ですか? そうそう、もうすぐプリセプターから一人立ちでしょ? 不安じゃない? 山吹が話を進めてくれているから、私は少し黙っていようと思った。 自分のプリセプターよりも金属年数が上の先輩は、雲の上の存在のように見えるものだ。 自分が新人の時、5年目の看護師がどんな風に見えていたか思い出せば、私よりも山吹との方が話しやすいだろうというのはわかる。 一人立ちは不安ですが、頑張ろうと思います。 淡々としたもときの返事は、やはり優等生善としている。 なんかムカつくことない?朝倉さんが厳しいとか、高坂さんが怖いとか。 山吹が砕けた口調で言う。 朝倉はともかく、高坂市長は私でも怖い。 いえ、朝倉さんはとても優しいですし、市長さんも怖いなんてことないです。 いやー、高坂さんは怖いでしょう。 山吹が笑う。 もときは曖昧に、いやー、と言いながら首をかしげた。 ちゃんと自分の意見言わないと、何考えてるか周りに伝わんないよ。 山吹がさらっと言った。 その言葉にもときが少し身を固くしたように見えた。 山吹は自分の感情を誰にでも伝えられるタイプの性格だ。 自分の感情を上手に外に出せる人は、出せない人がなぜ出せないのかわからないのだろう。 不安だとか悲しいとか、ちゃんと表に出した方が、もときちゃんも働きやすいんじゃないかな。 年数が近いから、もときが山吹に話しやすいのではないかと思ったけれど、山吹は直球すぎるかもしれない。 悪気があって言っているのではないことは、私にはわかる。 もときのことを思っているのだろうし、朝倉のことも考えての発言だろう。 言っていることは何も間違っていない。 でも、今そこを直球で詰めても、きっともときは何も言わないだろう。 人間関係もだけど、仕事内容はどう? 私は何気なく話に混じる。 もときはしっかり私の方に顔を向ける。 仕事内容ですか? うーん、循環器の希望だったって聞いたんだけど、長期療養はどうかなと思って。 やりがいがあります。 もときは即答した。 長期療養には長期療養の看護があるんだって、朝倉さんに教えていただきました。 とてもやりがいを感じています。 もときはハキハキと答えた。 就職面接の模範回答みたいで、私は内心でため息をつく。 もとき越しに見える山吹きは少し口を尖らせていた。 なんでもっと強く言わないんですか?とその目が訴えている。 強く言えばいいってもんじゃないでしょ?と私は目で山吹きを眺めた。 もときちゃん、いくらもどうぞ。うずきさん食べないから。 話を変えるような口調で山吹きがもときにお寿司を勧める。 もときは、ありがとうございますと言っていくらの皿を受け取り、それを自分の前に置いて、それからお茶を飲んだ。 追加で何か頼みますか? 山吹きが注文用紙を手にする。 もときから感情を引き出すのは難しいと、今日は諦めたのかもしれない。 あ、ホタテとネギトロ。 私の注文を山吹きが書いてくれる。 もときちゃんは? あ、じゃあ私もうずきさんと同じものを。 そう言いながら、いくらの分間を箸でつまんでは話して、またつまんでいる。 海苔の部分をペタペタと何度も箸で触っている。 ねえ、もとき、もしかしていくら苦手なの? 私の言葉に、もときは、え?と驚いたような声をあげた。 思わず感情が滲んでしまったといった声だった。 いや、そんなことないです。 ええ、だって食べそうで食べないから。 もときは黙っていくらの分間を見つめた。 10秒以上じっと固まってから、とても小さな声で、 実は、 魚卵が苦手です、と言った。 えー、やだ、なんで言ってくれないの? もときさんの良くないの、そういうところだよ。 山吹きがもときの皿を取ろうとした。 でももときはそれを制して、いや、でも頼んでいただいたものなのでいただきます、と言う。 私は驚いた。 何がここまでもときの行動を規制しているのだろう。 もときは看護の仕事に限らず、理想的なものに自分をはめ込む癖があるのかもしれない。 先輩が食べるまで自分は口をつけない。 仕事にはやりがいがある。好き嫌いは言わない。 そうやって理想的な優等生の方に自分をはめながら過ごしてきたのだろう。 今まではそれでもやってこられたのかもしれない。 でも看護師の仕事はそれで乗り切れるほど優しくない。 肩にはめ込まれたまま潰れてしまう前に、この子の肩を破ってあげたいと思った。 でもそれができるのは自分自身だけなのだ。 周りは助言しサポートするだけ。他人を変えることはできない。 看護と同じだ。 実際に頑張るのは患者。看護師はほんの少しだけ肩を貸す程度のサポートしかできない。 私いくら好きだから何皿でも食べるって。 結局山吹がもときの皿を取り上げて軍艦をもりもり食べた。 うずきさんももときちゃんもこのプチトロの良さがわからないなんてもったいないです。 山吹が若干拗ねた口調で言う。 もう大人なんだから好き嫌いくらい自分で決めさせてよ、ねえ。 私はもときの顔を覗く。 もときは少し戸惑ったような顔でうつむいた。 翌日は昼までゆっくり寝て冷凍チャーハンで遅い昼ご飯を済ませ、 またベッドに潜った。 夜勤前はギリギリまで体を休めておきたい。 出勤時間まで布団の中でまどろむ。 夜勤の間中関さんの枕元には思い残しの女性がいた。 相変わらずお金を握りしめたまましゃがんでいる。 結局どこの誰なのかわからないままだ。 もしかしたらこのまま関さんの容態が悪化してしまうかもしれない。 私は焦り始めていた。 関さんの思い残しも解消できないし、この女性がどうしてこんな表情をしているのかもわからないままだ。 私はどちらのことも救えない。 私は思い残しが見えるからこそ患者自身に一層寄り添えているはずだと思っている。 せっかく見えるのだから解消してあげなければならない。 そう、私はやらなければならないのだ。 ナースステーションでバイタルサインの入力をしながら関さんの元勤務先の名前を確認する。 イロハ石材。 そこへ行けば何かわかるかもしれない。 夜勤明け。見上げる空が明るい。 久しぶりの梅雨の晴れ間。 私は早速イロハ石材の場所を調べてみる。 歩いて30分くらいで着きそうだ。 病院の前のコンビニで軽く食べるものを買ってから歩こうと思っていたらスマートフォンが鳴った。 朝倉からのLINEだ。 うずちさん、夜勤明けですよね。少し会えますか? 今日朝倉は休みだ。 この前、もときとお寿司を食べに行った日のことはLINEしておいたから、 そのことで直接話したいのかもしれない。 今、病院前のコンビニで朝ごはん買ってる。会えるよ。 すぐ行きます。 ペコリと頭を下げる猫のスタンプが送られてくる。 ふとスマホの充電を確認すると残り少なくなっていた。 夜勤の休憩中に充電したのに最近は減りが早い。 もう3年ほど使っているからバッテリーが古くなっているのかもしれない。 ツナマヨのおにぎりとペットボトルのお茶を買っていると、 LINEの通り本当にすぐに朝倉は来た。 地方から出てきて病棟に勤務する独身の看護師は病院の近所に住むことが多い。 時間の不協格な仕事だからなるべく早く帰れる方がいいし、体の負担を少しでも減らしたい。 朝倉も近くのアパートで一人暮らしだ。 お疲れ様です。夜勤明けにすいません。大丈夫だよ。 どちらにせよ今日はすぐに寝ないでイロハ石材に行こうと思っていた。 コンビニの前だと我に知っているご家族に会うことがあるから、私たちは少し移動して近くの団地の小さな公園のベンチに座った。 昨日まで降り続けた雨で公園には水たまりが張っている。 久しぶりに太陽を浴びた草木がキラキラしている。 私はおにぎりを食べながら本木と食事に行った日のことを詳しく話した。 本木が自分を優等生の肩にはめ込んで抜け出せないのではないかという想像も話した。 朝倉はじっと話を聞いていた。 どうしてあげたらいいんでしょう。 長い髪をゆるく束ねた朝倉の横顔は疲れているように見えた。 疲労によって朝倉の儚さがより際立っている。 握ったらくしゃっと潰れそうなほど繊細に見えた。 あんまり考えすぎないでいいんじゃない。 今でも朝倉はしっかりやっているし、それを受けてどうするかは結局本木の問題だよ。 朝倉は小さく溜息をついた。 猫柴さんにもそんな感じのことを言われました。 プリセプターの仕事は看護師のおもにになることもあるから、 主任をはじめ上司のサポートがしっかりしている。 朝倉も猫柴主任に相談していたようだ。 朝倉さんのやり方は間違っていないですよ。 今まで通りに接して今後どうしていくかは本木さん次第ですって。 私もそう思う。 猫柴さんに話を聞いてもらって少し安心しました。自信なくしちゃってたから。 さっと風が吹いて、湿った土の匂いを運んでくる。 小さなカダに咲く色とりどりの花が、さわさわと揺れた。 いろいろありがとうございます。うずきさんこれから帰って寝るんですよね。 引き止めちゃってごめんなさい。 ああ、いいんだ。今日はすぐ寝るわけじゃないから。 朝倉が私に迷惑をかけたわけじゃないと伝えたくて、そう言った。 お出かけですか?いやお出かけってほどじゃないんだけど。 朝倉にも思い残しのことは言っていない。 でもなんだか意味深な言い訳めいた口調になってしまったから、 正直にいろは石材に行ってみようと思っていると話した。 いろは石材って関さんの元職場ですよね。 そうそう、サンドブラストって実際どんなものなんだろうって、ちょっと興味でちゃって。 全く知らない人ならまだしも仲の良い同僚に嘘をつくのは罪悪感がある。 でも思い残しのことを言ったらおかしな人と思われてしまうだろう。 患者さんの病院以外での姿って気になりますよね。 朝倉は良いように解釈してくれたようだった。 うーん、それもあるね。 私も一緒に行っていいですか? え、どうして? 意外な発言に目を見開いてしまった。 私もサンドブラストって見てみたい気がしますし、 ご病気になる前の患者さんのこと少しでも知りたい気持ちわかります。 それに一人で家にいると、なんか落ち込んじゃうんですよ。 朝倉は弱々しく微笑んだ。 思い残しのことを探るには一人で行った方がいい気もしたけれど、 うまく断る理由を見つけられず、 うーん、じゃあ一緒に行こうと返事をしてしまった。 広葉石材は広い石材店だった。 建物の周りに墓石のようなものや石像などがたくさん置いてある。 サンドブラストへの関心は後日だったが、実際に見てみると興味を惹かれた。 あら、結衣ちゃんじゃないの。 女性の声が朝倉を呼ぶ。 えー、朝倉が驚いた声を出す。 どうしたの?何、石材に興味があるの? あ、まあそうなんです。サンドブラストっていう手法があることを最近知って、実際どんなものなんだろうって気になって。 声をかけてきた女性は50代くらいの派手めなご夫人だった。 短いパーマの髪がくるくるしていて、毛先は明るい茶色に染められている。 年齢も外見も思い残しの女性ではない。 結衣ちゃん、看護師さんよね。もしかして関さんのことで来たの? 確かにここは関さんの元職場だけれど、関さんの病状は個人情報だ。 私たちが勝手に話していいことじゃない。 朝倉も関さんのことは何も言えずにいる。 黙っている私たちを見てご夫人は、あら、違うの? 関さんっていう腕の良い職人さんがいたんだけどね、肺をやられちゃって入院しているらしいのよ、と言った。 そうなんですね。 ところで、あの、ここで何をしていらっしゃるんですか? 何?ってご夫人は目を丸くして、私ここで働いているのよ、と朝倉の肩をパシパシと叩きながら笑った。 ご夫人は朝倉の住んでいるアパートの隣人だそうだ。 面倒見のいい人で、仕事で不規則な生活をしている朝倉をいつも気にかけてくれるらしい。 食事を作って持ってきてくれたり、田舎から送られてきたからと野菜をおすと分けしてくれたりする、今時珍しいタイプの隣人だそうだ。 そしてイロハ石材でジムの仕事をしているらしい。 朝倉は私を職場の先輩だと紹介した。 石材店の建物に入って応接ソファーに座る。 ご夫人は手際よくお茶を入れてくれた。 サンドブラストに興味があるって言ってもね、実際に動かすのは現場の職人だから、私は実物は見せてあげられないのよ。 そう言いながら写真を何枚か見せてくれた。 一枚目には、墓石にゴムハンのようなものを貼り付ける男性の後ろ姿が、 二枚目には墓石を布で覆い、その中で作業している姿が映っていた。 墓石の横に小型の機械が置いてあり、 そこからホースのようなものが伸びている。 その機械がサンドブラストのようだ。 写真の男性は一枚目と二枚目で違う人のようだが、石さんかどうかはわからない。 こうやってハンを作ってもらって、その上からサンドブラストで砂を吹き付けて、 お買い物を掘るのよ。 他にも写真を見せながら丁寧に説明してくれたが、 石さんとわかる姿は見つけられなかったし、思い残しの女性もどこにも写っていない。 仕事関係の人ではないのだろうか。 サンドブラスト職人の方が関わるのって、石材店の方以外だとどんな方なんですか? 一番は霊園の管理者かしら。 あとはお寺さん。うちの石材店だと西武霊園が一番関係してくるわね。 近くに大きなお寺さんあるでしょ。あそこの住職さんが霊園の管理もしているのよ。 そうなんですね。 朝倉と一緒に来たことが逆に好想して、事務のご夫人から良い情報が聞けた。 お寺と霊園に行ってみよう。 思い残しにつながるヒントが石材店にはなかったから、早く次を当たらなくては。 あら、もういいの?もっとおしゃべりしていけばいいのに。 ご夫人は引き止めてくれたが、私も朝倉も糸間を告げて石材店を出た。 うずきさん何か調べているんですか? 朝倉が聞いてくる。 確かに私の言動は不審だっただろう。 いや別にそういうわけじゃないんだ。 湿った風が私の髪を撫でていく。 こういう時思い残しのことを全部言えたら楽なのかもしれないと一瞬思ってしまう。 でもすぐにちなみの笑顔が脳裏に浮かぶ。 何もかもが美しかったあの日のグラデーションに染まる空。 これは私が一人でやらなければならないことなのだ。 何か私にできることあったら言ってくださいね。 朝倉は優しいと思う。 自分がプリコのことで悩んでいる最中だというのに私のことも気にかけてくれる。 ありがとう。朝倉は一人で帰って大丈夫? はい、予想外にお隣さんに会えて自分のことを考えてくれる人がたくさんいるって改めて思いました。 あんまり思い詰めたらダメだよ。朝倉は一人じゃないんだから。 朝倉はうなずいて、 宇月さんもですよ、と言った。 そうだね、ありがとう。 じゃ、またね。 朝倉と別れて私は歩き出す。 一人じゃない。 そうだ、私だってきっと一人じゃない。 お寺はイロハ石材から歩いて10分ほどの場所にあった。 入り口に大きなイショウの木があり、広い。 敷地に入ると濃い紫色の袈裟を着た男性が歩いていた。 すみません。 その人はゆっくりと振り向いて微笑んだ。 何でしょう? あの、お墓などに文字を彫るサンドブラストについて調べているのですが、 これは嘘ではない。 はい。 あれって石材店の職人さんがやっているんですよね。 そうですよ。岡井明のご依頼ですか? あ、違うんです。 えっと、職人さんのお仕事の方に興味があって、それで今、イロハ石材に行ってお話を伺って、 ここのお寺の住職さんも関わりがあるよと教えていただいたものですから。 そうでしたか。私がここの住職です。 住職さんはふっと姿勢が良く肩幅の広い大きな体をしていた。 包み込まれるような安心感を与える人だなと思う。 でも思い残しは女性だったし、この人ではない。 石材店の職人さんたちは本当に美しくおかゆを彫ってくれるから感謝しています。 職人さんが関わるのって、住職さんとか霊園の人以外に誰かいますか? 関わる人… ああ、施主さんにお会いすることがあるんじゃないですかね。 施主さん? はい、お墓におかゆを彫るための依頼主さんです。 会うことがあるんですか? ええ、職人さんたちの作業は通常早朝などお墓参りの人が少ない時間にやっていただいています。 でも時々おかゆを彫る作業を見たいという施主さんもいらっしゃいます。 自分のご家族がどんなふうなおかゆになるのか知りたいのは当然ですよね。 そして立派なおかゆ尿に涙する方もいらっしゃいます。 人が亡くなってからも関わる人たちはたくさんいるんだと思った。 看護師は生きている患者を相手に仕事をしている。 見取りをしても、エンゼルケアをすれば、そこで仕事は終わりだ。 でも、お墓を作る人もいれば、廃墓を掘る人もいる。 その作業を見守ることは、亡くなった家族を痛むことにつながるのだろう。 そうなんですね。 お忙しいところありがとうございました。 住職さんにお礼を言ってお寺を出る。 もし関さんの思い残しが施主さんだったら、もう追うことは難しいのではないかと心配になる。 空が重くなってきている。 久しぶりの晴れ間だったが、もしかしたら午後から雨かもしれない。 私は足早に霊園に向かった。 霊園は寺のすぐ裏にあった。 こうやって改めて見てみると、墓石に彫られている地は細かくてとても綺麗だ。 今まで何度も見たことがあるはずなのに、どうやって彫っているかなんて考えても見なかった。 霊園の管理者は住職さんだそうだが、掃除をしたりする職員がいるらしい。 霊園の中を歩いて回っていると、作業着姿でゴミを拾う男性がいた。 男性の時点で関さんの思い残しではない。 やっぱり思い残しの女性は施主さんなのだろうか。 施主さんが職人を睨みつけるのはどんな状況だろう。 険しい顔でお金を握りしめる思い残しと、 先ほど聞いたおかえみょうに涙するという話とは、どうもイメージが噛み合わなかった。 雲間から覗いた薄い陽光が足元に短い影をつくる。 もうすぐ昼になる。 夜勤明けで勢いのまま行動してきたけれど、思い残しに近づくことはできていない。 今日は諦めて一度家に帰ったほうがいいかもしれない。 日はすぐに陰り、空はまた雲に覆われた。 いろは石材の方へ戻ると、店の前にさっきはなかった軽トラが止まっていた。 ちらっと覗くと運転手らしき男性と事務のご夫人が立ち話をしている。 男性は60代くらいで、丸い大きな顔の下で首の肉がだぶついている。 作業着のファスナーが窮屈そうなほど太っていて、暑いのかハンカチでしきりに顔を拭っている。 聞いてよ、また金庫の金が盗まれたんだよ。 私は思わず足を止めた。 お金が盗まれたと聞こえた。 またですか?薬も社長誰かに恨まれてません? ご夫人が笑いながら言う。 知らないよ。今度防犯カメラつけてやろうと思って、犯人見つけて警察に突き出してやるんだ。 薬も社長と呼ばれた男性は興奮気味に唾を飛ばしている。 誰かがお金を盗んでいるらしい。 私は思い残しが握りしめていたお金を思い出す。 何かがカチリと音を立ててハマる感覚がする。 軽トラを見ると工房薬もとペイントされていた。 スマートフォンを取り出す。 よかった、まだ充電はなくなっていない。 検索してみると工房薬もはこのすぐ近くにあった。 サンドグラフトをするときに必要な版を作っている工房らしい。 私は家へ帰るのをやめてマップを頼りに工房薬もへ向かう。 歩いている途中に薬も社長の軽トラに追い抜かされてマップの場所に停車した。 社長は軽トラを降りると工房へ入っていった。 私はそっと近づいて窓から中を覗く。 お前たちさっさと手を動かせ! 突然の怒声にスマートフォンを落としそうになる。社長の声だ。 期限内に作業が終わらない奴は厳禁だぞ! お前たちは買い目をイカだ!死人イカだ! こういった工房の平均がわからないけれど窓から見える部屋はそんなに広くなかった。 十畳程度だ。 そこに机が並べられて6人の女性たちが社長の罵声を浴びながら机にかじりつくように作業をしている。 人の皆妙に関わる仕事をしている社長があんな発言をしていることに私はショックを受けた。 住職さんは立派なお皆妙に涙する方もいらっしゃると話していた。 私も亡くなった人の買い目を掘る仕事に尊敬の念を持つようになっていたのに。 黙々と作業をする人たちの中で一人、 少し顔を上げてやくも社長を睨みつけるように見ている人がいた。 私はその顔を見て、あっと声を出した。 無造作に一つに言った髪、キャラクターの絵柄のついた黒いロンティー、 くっきりした二重で睨みつける表情。 関さんの思い残しの女性だ。 買い目を掘るための藩を作っている人だったのか。 それならサンドブラスト職人の関さんと接点があってもおかしくない。 あれは関さんに向けられた視線ではなかったのだ。 社長への憎しみに満ちた表情でお金を盗んでいるところを、 たまたま関さんが目撃してしまったのだろうか。 関さんも社長の性格を知っていて女性を心配したのかもしれない。 やくも社長は呑なり続けていた。 従業員たちの人格を否定するような言葉が続く。 私は心が沈んでいくのを感じる。 こんなひどいことばかり毎日言われていたら、社長を恨む人も出てくるかもしれない。 お金だって盗みたくなるかもしれない。 パワハラだって犯罪のようなものだ。でも、窃盗も犯罪だ。 同情したくなる気持ちもあるけれど、私は関さんの思い残しを解消するためにここに辿り着いた。 やっと見つけた女性を見逃すことはできない。 やくも社長は散々怒鳴り散らしてから工房を出てきた。 そのまま軽トラへ乗ってどこかへ出かけていく。 私は軽トラが見えなくなるまで見送ってから工房の窓へ近づいた。 指で小さくノックをする。 すみません。 窓の近くの席で作業をしていた女性が腰を浮かすほど驚いて私を見る。 いぶかしげな表情で、でも一応窓を開けてくれる。 何ですか? 驚かせてごめんなさい。 あのあそこの席に座っている黒いTシャツの人に用があるんですけど、呼んでもらうことってできますか? 窓際の女性は不審そうな顔で私を見たが、二つ隣の机で作業をしている思い残しの女性に声をかけてくれた。 女性は少し首を伸ばして私を見る。 険しい表情が癖になってしまっているのだろうか。 表情に柔らかさは感じなかった。 女性は臆空想に窓まで歩いてきて、 何ですか?と平坦な声で言う。 私は小さな声ですぐ終わるので外でいいですか?と返した。 女性は渋々といった感じで工房から出てきてくれる。 何の用ですか?忙しいんですけど。 女性は苛立ちを隠しもせず腕を組んでいった。 あの私は本当に通りすがりの無関係なものなんですけど。 薬も社長が金庫のところに防犯カメラをつけるってさっき言ってました。 女性がハッとした顔をする。 私の予想は当たっているようだ。 驚きの後に怯え、私への警戒心、そういったものが瞬時に駆け巡ったのだろう。 どういう意味ですか? 特に意味はないです。何なんですか?あなた誰です? だから通りすがりのおせっかいなものです。 本当におせっかい?あなたに何がわかるって言うんですか? 女性は怒っているように見えた。 突然現れた見ず知らずの人に、窃盗がバレているかもしれないと思ったら怖いだろう。 その恐怖が怒りとなって発散されているようだ。 私はなるべく怯えさせないように気をつけながら、できる限りのことは伝えたいと思った。 その上でどうするかはこの人次第なのだ。 人の行動は変えられない。 でも声をかけてきっかけを作ることはできる。 私はただ想像で物を言っているだけですが、多分身近に気づいている人がいると思います。 その人は告げ口をせずに黙っていてくれています。 でもすごく気にかけてくれている。そういう人がいるということだけ知っていてください。 女性はぎゅーっと目を細めて私を睨むように見た。 何も知らないで勝手なこと言わないでくれます?こっちがどれだけ大変か、あなたみたいな若者にはわからないでしょう。 吐き捨てるように言う。 子供は小さくて手がかかる。夫は病弱で働けない。私は書道くらいしかできることがない。 そんな状態でどうやって働けって言うんですか。 ここの工房でやっと筆工の仕事を見つけたのに、あなたはそれも奪う気ですか。 溜まっていた鬱憤の矛先を見つけたと言わんばかりの勢いだった。 筆工というのはさっきこの人がやっていた作業のことだろうか。 そんなつもりじゃありません。でも気づいているけど告げ口しないで見守っていてくれた人もいるっていうことです。 告げ口ってあなたのことじゃなくて? 私じゃありません。 あんなクソ社長の金なんか少し取られるくらいでちょうどいいでしょう。 うん、と鼻息を吐いて女性は工房へ戻っていった。 私にできるのはここまでかもしれない。 これからこの人がどうするかは私には決められない。 少なくとも思い残しにあって思いを伝えることができた。 これで十分だと自分に言い聞かせよう。 重く垂れ込めていた雲から細かい雨が降り出した。 私は工房を振り返らずに家への道を歩き出した。 それから数日雨が続いている。 この時期にしっかり降ると土に水分が蓄えられ、夏野菜に良い影響があると聞いたことがあった。 冷たい雨にも意味はある。 関さんと同じ部屋の患者の航空ケアをしていると関さんのカーテンの中から明るい声が聞こえてきた。 そういえば工房のお金、金庫に戻っていたらしいわよ。 面会に来た奥さんだ。 戻ったって言ってるけどもともと盗まれていなかったんじゃないか? 関さんの楽しげな声も聞こえる。 どうやらあの女性はお金を金庫に返したようだ。 私に怒りをぶつけた女性を思い出す。 吐き捨てるように自分の置かれている不運な環境を訴えていた。 お金を盗まなければならないほど追い詰められている人がいるという現実に胸が痛む。 でも盗みは犯罪だ。 超えてはいけない境界線というものはある。 どうかしらね、あそこの社長さん口悪いでしょ? だから神様が懲らしめたんじゃないの? ははは、そのくらいで反省する人とは思えないなぁ。 あの社長のパワハラは周りにも伝わっている。 関さんのように気にかけてくれる人がきっとあの女性の周りにはまた現れてくれる。 そうしていろんな人の肩を少しずつ借りながら、どうかあの表情が柔らむような日が来ますように。 人は誰でも一人じゃないんだから。 検温の時間になって関さんのいる部屋へ行く。 関さん、ご面会中失礼します。 午後の検温しますね。 私は声をかけながらカーテンの中に入る。 おう、うずきちゃんよろしく。 あなたうずきさんでしょ?もうすみませんね。 ごくさんが関さんのお腹をつつく。 その枕元にはもう思い残しはいなかった。 私はほっと胸をなでおろし、ベッドサイドへ近づいた。

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